前回の記事で怒りについて書いた。
個人の人生を良くするために、そして世の中を良くするためには怒りが必要、ということを書いた。
とりわけこのコロナ禍において、そう感じる局面が増えた。
とは言え、自分が怒り一辺倒で生きられる人間ではない。ということも痛感している。
往々にして、怒りを感じることは哀しみを伴うことがある。
例えば、中国共産党が香港にしていることは、許されざることであると同時に深い悲しいも持たせる。
怒りと悲しみという2つの激情に飲まれて、最近の自分は疲労が増すばかり。
とにかく疲れている。というのは以前の記事で書いたとおり。
社会生活を送る自分としては、仕事をしてお金を稼ぐ必要がある。自分の生活を回していく必要がある。
だから世界の在り方というマクロ的なことをずっと気にしているわけにはいかない。
そうでないと、消耗し切って何も手につかなくなる。とても生きていかれなくなる。ということもまた、このコロナ禍において強く感じている。
人は怒りのみにて生きるにあらず。
ではどう対処するべきか。
怒りと喜びのバランスを取っていくことが望ましいように思われる。
何か楽しいもの、何かわくわくするもの、そういうものに没頭する時間はやはり必要だと思う。
とても当たり前のことを言っているようだし、そのことを自然に実践している人はたくさんいるのだと思う。
だけど、自分はちょっと意識的にならないとダメかもしれない。
例えば、最近のブログの内容について。
「with カオスの時代を生きる」という記事を書いたあとに、「自炊がんばる」的な記事を書いている。さらにその後に「怒りについて」。
文体もテイストも異なる記事が並ぶことについて、なんだか違和感があった。自分が分裂しているような、そのような感覚。
けれど、これで良し、とすることにする。怒り的なことと、喜び的なことを両立させること。そのことを是として、両方に時間を注いでいくこと。
そうすることで、怒りに飲まれずに済むような気がしている。そのような技能を身につける局面に入ったのだと思う。
そもそも、世界を良くするのは怒りだけではない。喜び的なものもまた、その原動力になる。
ゲイの生きやすさについて。
石を投げられてでも声を上げてくれた先人には頭が上がらない。それと同時に、多くのゲイ映画、あるいはゲイの登場するドラマが果たした役目もまた大きい。
どちらも大切なのだと思う。
自分の中で怒りと喜びのバランスを取ること。これが今、自然な技法として自分が身につけていくべきもの、という気がしている。
追記
おさむさんというブロガーさんの書かれた記事を読んだ。彼の感じる不安感というか徒労感みたいなものには強く共感してしまった。
自分がこの記事を書くにあたって、執筆の原動力をもらえたような気がしている。