2020年に入って、世界がガラリと変わってしまったように思う。
実際の世界もさることながら、自分の中での世界認識というものも、強制的にアップデートをかけられているような、そんな気がしている。
例えば、アジアの民主主義について。
自分がその問題に関心を持つのはあまりにも遅かった。
フリーチベットという言葉は聞いたことはあれど、その言葉の持つ意味と重みを真剣に考えたことはなかったかもしれない。
香港の学生たちのデモを見て、ようやく卑近な問題として関心を持てた。それが2019年のこと。
それを契機に、チベットが「実効支配」される歴史について学んだ。それが香港に適用されるさまを、いま目の当たりにしている。
こんなに恐ろしいことが自分が生きている時代に起こるなんて…。戸惑いを超えて、恐怖すらある。
次は台湾、それから沖縄と言った予測もある。それはまったく非現実のこととは思えない。
中国共産党(というより漢民族)には「中華思想」というものがある。彼らは世界を飲み込まずにはいられない。
分かりあえない部分がある、というより妥協してはいけない部分があるのだということを強く実感している。(戦争をしろという意味ではなく、国境を守らなければいけないと言う意味で)
それから新型コロナウイルスの問題について。
「たかが風邪」にここまで世界が機能停止になってしまうのかと。自分の中で、世界への信頼が揺らぐ想いがした。
未知のウイルスであるし、命を守るために弱者に基準を合わせる、という体制は理解できる。さらに、不明確な後遺症への恐怖もある。
それでも、ここまで滅茶苦茶になってしまった世界を正視できない。
国内では、給付金のオンライン申請が失敗したことが強く記憶に残っている。
有事に work しないこと、さらにはあっさりとその問題が風化してしまったことに「これでいいのか?」という気持ちが強くある。
感情優先の風潮にも本当に嫌気が差す。
「うちで踊ろう」的な風潮から始まり、花火をあげたり戦闘機を飛ばしたり。それをありがたがっている人々の多さに驚いた。本当にそれで良いのかと。
ただただ薄ら寒い。自分がそう感じるタイプの人間だということも、新鮮な発見だった。
香港の問題やコロナの問題、言葉にしてしまえばシンプルなのだけど、それが露呈させた現実はあまりにも重たい。
今まで見ずに済んでいた問題が、常に目の見えるところで起こっている。2020年はずっとそんな感じがしている。
正直なところ、疲れた。最近ずっと心が疲れている。
「コロナ以前の世界が戻ってきますように」
これは今多くの人々が願っていることだと思う。気持ちはよく分かる。
けれど、それが全くの幻想である可能性もある。
そもそも立て続けに問題が起こっている背景には、マクロ的な原因がある。
アメリカが世界を制御できなくなりつつある。
以前ならば、世界が協調して感染症を防げたかもしれない。あるいは中国がこんなにも傍若無人に振る舞うことはできなった。
いまパワーバランスが崩れて、問題が噴き上がってきている。
例えばいま、中国では豪雨が発生している。三峡ダムが決壊するかもしれないという懸念がある。その時、中国は諸外国からの援助を受け付けないかもしれない。
ダムが決壊した影響は、日本にとっては食糧危機という形をとる。
コロナの第二波が懸念される中での食糧危機の可能性。町中のスーパーがどうなってしまうのか。想像しただけで気分が重くなる。
食糧危機だけではなく、気候変動やエネルギー資源など、リスクの種類は様々。
それらが立て続けに、あるいは重複して起こる可能性は十分ある。
「with コロナ」とは良く言ったもので、問題がある前提で行動するのが正しいように思える。
そういう時代に突入してしまったのだと覚悟を決めるのが正解なのかもしれない。
コロナ以前を切望する気持ちはよく分かるけど、いましていくことは問題への対策とかシステムを構築することなんだろうなと感じている。
コロナに限らず、様々な問題が噴出してくる。そんな「with カオス」の時代を生きる覚悟こそ、僕らがしていくことなんじゃないかな、と思っている。
長くなってしまったけど、最近感じていることと考えていることについて書いてみた。