同僚とコーヒーを買いに行くのが毎朝の日課だ。最近のトピックはもっぱらゴールデンウィークについて。
同僚からゴールデンウィークの過ごし方について聞かれる。僕は彼氏と、彼氏の友人2人と旅行に行くことになっている。
彼氏の友人については前回書いた通り。
「石川県に旅行に行くよー」
ありのままに答える。すると、同僚がニヤニヤし始める。
「誰と行くの?」「もしかして…?」
その場にいたのは4人。3人にはカミングアウトしているけど、もう1人はまだ知らない。3人は同じチームで常に連携して働いている。もう1人は大きい括りでは同じチームだけど、たまに話す程度だ。
どうしようかなと思いつつ、味方が3人もいるんだしもういいやと振り切った。
「彼氏と行きます…!」
3人がいつものノリで冷やかしてくる。やっぱり外国人(特に欧米人)はカップル文化だから、そういうことには無条件でノリノリだ。
もう1人の同僚の顔を伺うと、「おー!」と驚きつつ祝福してくれた。良かった良かった。
彼は僕のTシャツを良く褒めてくれるんだけど、後になって「どこで買ってるの?」と聞いてきた。それまでと変わらずに接してくれるのは、カミングアウトが受け入れられるよりも格段嬉しい。すっかり安心して楽天のお気に入りのネットショップを教える。しまった!同じTシャツを買ってしまったら恥ずかしい、ということに後から気づく。
同僚に彼氏の存在が知られてからは、冷やかされることが増えた。
定時帰宅しようものなら、「めずらしいね。あっ、デートかw」なんて冷やかされて、僕はちょっと耳を赤くしながら退社する。
なんて普通*1なんだ。
前の日本人だけの会社では、カミングアウトしたものの、その後の発展はなかった。(ハッテンではなく発展)
ゲイであることが普通に受け入れられて、彼氏との関係を普通に冷やかしてくれる。僕はこのことに感謝しなければいけない。いや、本当に理想の世の中とは、それが普通すぎて感謝すら必要のない世界なんだろうけど、今までの自分の人生を振り返るにつけ、やっぱりいちいち心が温まってしまう。
感謝するべきは同僚だけじゃない。大袈裟な話だけど、一歩ずつゲイを普通にしてくれた(してくれている)人たち全てのおかげなんだよなぁと少しセンチメンタルな気分になってしまう。
少し前にNetflixで「パレードへようこそ」という映画を見た。
もうね、良すぎたね。「パレードへようこそ」は純粋なLGBT映画ではなく、80年代のサッチャー政権下での炭鉱労働者への冷遇という側面もあって、両者が交流して絆を築いていく様は涙無しには観れない…(映画評が下手クソ)。
思想や結果の違いはあれど、一歩ずつ行動を起こして「ゲイ」を普通にしてくれた人への想いを忘れたくない。後世の人々が感謝を忘れるほどの「普通」は、ある意味では彼らの理想の達成なのかもしれないけど。それでも僕はまだ自分が過渡期にいると感じるので、受け取ったバトンを握っていたい。
一緒に働く同僚は、まさしく「パレードへようこそ」の息子娘世代なんだよなーとしみじみする。
そういえば以前の会社でも、こんなことがあった。
「chuckくんってゲイなの?そうなんだ!もっと早く言ってくれれば良かったのに!」
面倒見の良いお兄さんタイプのプロダクトマネジャーさんからそう言われた。
「大学時代の友人にも、そう言えばカミングアウトされたっけなー」
そうか、この人の人生には、他のゲイの足跡が既にあるのだ。昔を懐かしむような口調のマネジャーを見ながら、会ったことすらない彼の友人に思いを馳せる。
どんな日に、どんな場所で、どんな言葉でゲイであることを告げたのだろう。勇気を出したカミングアウトをだったのだろうか。それともすっかり慣れっこだったのだろうか。
見たことも無い彼に、共感というか同志みたいな感情を抱いてしまう。
そして、次にカミングアウトをされた時、この人は僕のことを話してくれるんだろうか、とも考える。
僕は実例になりたい。「前に一緒に働いていた人がゲイでさー、優秀なプログラマだったね〜」と言われたい。いや、優秀は欲張りかもしれない…。マジメなプログラマでも、読書家のプログラマでも良いんだけど。とにかく、誰かにとっての「会ったことのあるゲイ」の一人になって、その人の「普通のゲイ」を構成する一部になりたい。
カミングアウトは別にしてもしなくても良いと思うけど、僕はする方を選んでしまったので、それが少しマジメなゲイである自分の役割…のような気がしている。それが僕なりのバトンの渡し方なのかもしれない。*2*3
というわけで、明日は連休前の平日最終日(来週は休みを取った…!)。いつも通り、なるべく良いコードを書いて、良いプロダクトを作るその一助となります。